私、脚本家の野木亜紀子さんの作品が大好きなんですけど
図書館戦争からどハマり!
初期の頃はずっと原作物をドラマ・映画化されてましたよね。
原作の世界観を壊すことなく、映像にアレンジ・昇華されていて
原作ファンも納得の作品になるので、本当に大好きなんです。
アンナチュラルからですかね、オリジナル作品も手掛けられるようになって。オリジナル作品もまたいいんですよねぇ。
今日は野木さんの作品の中で「罪の声」について語りたいと思います。
罪の声は142分という長尺映画。
最初142分もあることを知ってビビったんです。
私、映画って途中で飽きることがちょくちょくあるんですよね.
でもこの「罪の声」は最初から最後までずっと
集中して見ることができました。
だって先が気になるんだもん。
この映画の題材は、日本を震撼させたグリコ・森永事件。
その時「声」を使われてしまった子供たちの話。
私の中で一番響いたのは、小栗くん演じる記者の阿久津さんです。
阿久津さんは普通にそれなりの情熱を持って働いていたけれど
「過去を掘り起こすこと」や取材を重ねることに対して、どこか燃え尽きというか、疑問を持ってしまった阿久津さんは
社会部の記者をやめて、文化部でのらりくらりとした仕事をしてたわけなんですよ。
昭和のおじさんたちみたいな情熱を持つこともできず。
自分の中に熱があるのかどうかも感じられない、そんな世代。
どこかでぷつんと糸が擦り切れてしまって、心が枯れてしまったそんなどこにでもいる普通の人。
一度疑問を持ってしまって、気持ちが止まってしまった阿久津の
「記者の矜持もない。世に訴えたいことも何もない」
っていう普通のおじさんの声がね。胸を打たれました。
そしてこのお話は、犯人がだれとか。
そういうことももちろん気になる展開ではあるんだけど。
(実はあの事件は本当にそうだったんじゃないかって思わせる原作の力がもちろんすごい(あ、この作品は原作映画化ものです))
どうして、どういう背景があってその行動に出てしまったのか。
声を使われた子供たちはどうなっていったのか。
そういう人たちに視点が移っていくことで
いろんな人の思いが交錯するわけですよ。
罪を負うべきは声を使われた子供たちではない。
ないけれども、同じ声を使われた子供なのに、こんなぬくぬくと暮らしてて良かったのか。
って罪悪感が心に生まれてしまう気持ちもあると思う。
そんなセリフも説明もないんだけどね。
源さん演じる曽根さん見てたら、そう思っちゃう。
アンナチュラルの時に描かれてた、生き残った人たちが感じる罪(サバイバーズギルト)と似た感覚を覚えちゃいます。
もちろん、野木さんはそんなとこに関連性を持たせて見て欲しいとは思ってないでしょうけど。
ともかくね。
畳み掛けるような取材劇がどんどん織りなされて
追う側の阿久津と追われる側の曽根が合流して
パズルのピースがハマっていく感覚がとても面白かったです。
悲しみや痛みの中に、最後はそれぞれがちゃんと前を向いていく
そして、大きな悲しみや痛手を受けた事件の当事者たちのそばで、
静かに、でも確実に自分を取り戻していく普通のおじさん、阿久津さん。
うん、いい映画でした✨
一点、本当にどうでもいいところなんだけど。
曽根パパ役はあの人じゃない方がよかったな(笑)
何もなかったはずのパパが実は裏でもっとひどいことしてたんじゃないかと妄想が広がってしまうので∑(ノ∀`*)
アンナチュラルでね、連続殺人犯役をやってた尾上寛之さんだったんですけど。
他の作品の役と脳内で繋がっちゃうことってありますよね。
私は、大河ドラマでよくなります(笑)
映画「罪の声」は、アマゾンプライムビデオで見ることができます。
原作は塩田武士さんによる2016年の小説『罪の声』。
新聞記者の経験がある塩田さんが学生時代から構想し、15年の歳月を要した原作は、塩田さん自身による徹底した取材を元に書き上げられています。
最近は都市伝説系YouTubeが好きでコヤスタをよく見てます。
コヤスタの中で出てきたグリコ・森永事件の回はこちら
最近都市伝説が気になるのは、「世紀末感」を感じるからかなぁ、なんて思っています。
ノストラダムスの時とかさ、あんまりよく覚えてないけど「世界終わるのかなぁ」なんて感じあったじゃないですか。まさかな、って思いつつ。
今の時代、なんかあの時よりよっぽど世紀末感を感じてしまって、そのメンタルと都市伝説が共鳴するのかな、なんて思ったりしてます。
まあでもそんな中でもコヤスタは軽妙にコミカルに語ってくれるので不安感煽られないからエンタメとして楽しめるから好きですね。